今回、「赤と黒」の誤訳箇所を検討してみて、何事も自分の目でよく見て自分の力で判断することの大切さを痛感しました。日本人は、「世間で評判だ」というだけの理由でものを買ったりしがちですが、自分の選択眼を持たなければなりません。東京大学の准教授ですら、このような杜撰な仕事をすることがあるのです。ですから、読者の皆さんも、大学名とか肩書きにだまされることなく、いいものか悪いものかを自分で考える習慣をつけていただきたいと思います。ミーハーは知性から最も程遠い態度であります。
今日採りあげる箇所は、ひとつのパラグラフがそっくり抜け落ちている箇所(第2部第5章)です。
文章は、上から順に、①原文 ②PENGUIN CLASSICSシリーズの英訳 “The Red and the Black” ③新潮文庫「赤と黒(下)」(小林正 訳) ④光文社古典新訳文庫「赤と黒(下)」(野崎歓 訳)<第1刷 2007.12.20 発行> ⑤光文社古典新訳文庫「赤と黒(下)」(野崎歓 訳)<第3刷2008.3.15 発行> です。
①
Peut-être était-il un peu plus claivoyant que les premiers jours, ou bien le premier enchantement produit par l’urbanité parisinene était passé.
Dès qu’il cessait de travailler, il était en proie à un ennui mortel; c’est l’effet desséchant de la politesse admirable, mais si mesurée, si parfaitement graduée suivant les positions, qui distingue la haute société. Un cœur un peu sensible voit l’artifice.
Sans doute, on peut reprocher à la province un ton commun ou peu poli. Mais on se passionne un peu en vous répondant. (以下略)
②
Perhaps he was a little more perceptive than he had been in the first few days or, rather, perhaps the first enchantment with Parisian urbanity had faded.
From the moment he finished his work each day he became prey to a deadly boredom, such was the dessicating effect of that courtesy which characterizes high society ― admirable in itself, but so regulated, so closely graduated according to one’s standing. Any even slightly sensitive heart can perceive its artifice.
Undoubtedly the provinces can be accused of commonness of tone and lack of polish, but at least people there show some warmth in their responses. (以下略)
③
おそらく、最初のころより、多少はものの見通しがつくようになっていたかもしれない。というよりは、洗練された都会趣味に対する陶酔から冷めたといえよう。
仕事がすむと、たちまちやりきれないほど退屈になる。上流社会特有の、まことにりっぱな、だがあまりにも節度のありすぎる、地位に従ってあまりに区別のはっきりしすぎている作法が、感覚をすりへらしてしまうからである。多少とも感じやすい心には、わざとらしさが鼻につく。
むろん、田舎の、卑俗で、洗練されない調子は、非難されもしようが、田舎では、返事をするにも、もうすこし熱がこもっている。(以下略)
④
おそらく彼にも、最初のころよりは多少、物事が見えてきたのだろうか。あるいは、最初パリという都会に感じた魅力が失せてしまったのかもしれない。
なるほど、田舎の粗野で下品な調子をとがめることはできるだろう。とはいえ、田舎では返事一つにも少しは熱がこもっている。(以下略)
⑤
おそらく彼にも、最初のころよりは多少、物事が見えてきたのだろうか。あるいは、最初パリという都会に感じた魅力が失せてしまったのかもしれない。
なるほど、田舎の粗野で下品な調子をとがめることはできるだろう。とはいえ、田舎では返事一つにも少しは熱がこもっている。(以下略)
見てお分かりのように、④<第1刷>の訳は、問題の箇所は、原文のDès で始まる段落を、そっくり訳し忘れています。これは⑤<第3刷>でも修正されていません。
このような誤りは、原文と対照チェックをすればすぐにわかるものです。今回の翻訳は、かなり短期間のうちに締め切りに追われながら行われたのではないでしょうか。時間をかけてチェックしたとは思われません。やっつけ仕事もいいところです。下川教授の指摘によると、訳し忘れの箇所は他にも数箇所あります。詳しくは、スタンダール研究会にアクセスし、下川教授の書評をご覧ください。