「赤と黒」の誤訳をめぐって(5)
今日も、下川教授が指摘された誤訳箇所の中から一つとりあげて検討してみましょう。第2部第11章の終わりの部分で、登場する「私」は、ヒロインのマチルドです。
文章は、上から順に、①原文 ②PENGUIN CLASSICSシリーズの英訳 “The Red and the Black” ③新潮文庫「赤と黒(下)」(小林正 訳) ④光文社古典新訳文庫「赤と黒(下)」(野崎歓 訳)<第1刷 2007.12.20 発行> ⑤光文社古典新訳文庫「赤と黒(下)」(野崎歓 訳)<第3刷2008.3.15 発行> です。
①
J’aurais une signature de contrat comme celle de la cadette de mes cousines, où les grands-parens s’attendriraient si pourtant ils n’avaient pas d’humeur à cause d’une dernière condition introduite la veille dans le contrat par le notaire de la partie adverse.
②
I’d have a celebration at the signature of my marriage contract ― just like that of my young cousins ― where all the heads of the families would shed a tender tear if, that is, they had not been put out of sorts by a final condition introduced into the contract by the opposing lawyer the night before.
③
あたしも、一番年下の従妹と同じように、結婚契約書に署名することになるだろう。親戚の年寄り連中は、涙を流して喜んでくれるにちがいない。もっとも、前の日に、先方の公証人が契約書に付け加えた最後の条件で気を悪くしていないときの話だけれど。
④
一番年下の従妹と同じように、私も結婚誓約書に署名すれば、年取った親戚たちはさぞや喜んでくれるだろう。ただしこちらが前日になって、契約書に条項を書き加えたせいで、先方の公証人が腹を立てていなければの話だけれど。
⑤
一番年下の従妹と同じように、私も結婚誓約書に署名すれば、年取った親戚たちはさぞや喜んでくれるだろう。先方の公証人が前日になって、条項を書き加えたりしたせいで、年寄りの親戚が機嫌を損ねていなければの話だけれど。
原文を前から読んでみましょう。
J’aurais une signature de contrat (私が誓約書に署名すれば)
comme celle de la cadette de mes cousines, (私の従妹たちの中で一番年下の従妹のように)
où les grands-parens s’attendriraient (その場合、年を取った親戚たちは感動するだろう)
si pourtant ils n’avaient pas d’humeur (ただし、もし彼らが不機嫌にならなければ)
à cause d’une dernière condition (最後の条件のせいで)
introduite la veille (前日につけ加えられた)
dans le contrat (誓約書に)
par le notaire de la partie adverse.(先方の公証人によって)
上の4行目にあるilsは、英語のtheyにあたる代名詞で、この場合は、直前のles grands-parens(年を取った親戚たち)を指しています。
ここで④の訳を見ると、「先方の公証人が腹を立てていなければの話だけれど」となっており、ilsが「公証人」を指しています。最後の行に出てくる「公証人」le notaireは単数形ですから、ilsが指すことはあり得ません。つまり、この箇所は、「名詞の単数・複数や代名詞を理解していない人物」によって訳されたのです。フランス語の学識豊かな野崎氏が訳したとは到底考えられません。
可能性の一つとしてあり得るのは、この部分を訳した人間が、日本語の既訳を読み、しかも誤読して訳したのではないかということです。③の新潮文庫訳を見ましょう。「先方の公証人が契約書に付け加えた最後の条件で気を悪くしていないときの話だけれど」と書いてありますが、この文の「先方の公証人が」は「付け加えた」につながりますね。煩雑を恐れずに書けば、「先方の公証人が契約書に付け加えた最後の条件で、(親戚の年寄りたちが)気を悪くしていないときの話だけれど」となります。
しかし、日本語をよく読めない人間がこの箇所を読むと、「先方の公証人が」を「気を悪くしていない」につなげて読むかもしれません。こう考えると、④の誤訳の原因が説明できますね。
なお、この誤訳も、⑤<第3刷>では、正しく訂正されています。
人を使って訳させる場合、基礎学力のある人間にやらせないと、とんだ二度手間、三度手間になってしまいますね。
English self Taughtのホームページもごらんください! http://www.englishselftaught.com/
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