「赤と黒」の誤訳をめぐって(6)
本屋で、新潮文庫の100冊のブックレットをもらい、見てみました。私が学生の頃に比べると、古典・海外作品が減り、現代文学がとても多くなっているのに驚きました。スタンダール「赤と黒」は1989年を最後に、100冊に入っていないようです。古典に代わって、唯川恵・重松清・湯本香樹実・石田衣良など、今の日本の作家がたくさん入っていますが、こんなの読む価値があるんでしょうか?学校が教師にメシを食わせるための場であるように、文学は今生きている作家に収入を与えるための手段になってしまったようです。
それはさておき、今日も下川教授が指摘された箇所の一つを紹介します。今晩必ずレーナル夫人の手を握ると決心したジュリヤンが、十時の鐘の音が鳴ると同時に計画を遂行しようとする場面です。(第1部第9章)
文章は、上から順に、①原文 ②PENGUIN CLASSICSシリーズの英訳 “The Red and the Black” ③新潮文庫「赤と黒(上)」(小林正 訳)④光文社古典新訳文庫「赤と黒(上)」(野崎歓 訳)<第2刷 2008.2.8 発行> ⑤光文社古典新訳文庫「赤と黒(上)」(野崎歓 訳)<第3刷2008.3.15 発行> です。
①
Après un dernier moment d’attente et d’anxiété, pendant lequel l’excès de l’émotion mettait Julien comme hors de lui, dix heures sonnèrent à l’horloge qui était au-dessus de sa tête. Chaque coup de cette cloche fatale retentissait dans sa poitrine, et y causait comme un mouvement physique.
Enfin, comme le dernier coup de dix heures retentissait encore, il étendit la main, et prit celle de madame de Rênal, qui la retira aussitôt. (以下略)
②
After a final period of tension and worrry, during which Julien became almost beside himself with his excess of feeling, ten struck on the clock above his head. Each stroke of this fatal clock echoed in his breast, and produced there an almost physical reaction.
At last, as the final stroke of ten was still reverberating, he extended his hand and took that of Mme de Rênal ― who withdrew it immediately. (以下略)
③
ぎりぎりの期待と不安のひとときが過ぎる。その間、ジュリヤンは興奮のあまり我を忘れてしまった。いよいよ真上の大時計が十時を打ち始めた。運命を決する鐘の音が、鳴るたびに、彼の胸に響きわたり、いわばつきさすような衝動を起こした。
ついに、最後の鐘が十時を打ち終わろうとする前に、ジュリヤンはつと手を伸ばして、レーナル夫人の手を握った。夫人はすぐに手をひっこめた。(以下略)
④
不安な気持ちで機会をうかがいながら、ジュリヤンが心の昂ぶりをおさえかねていたとき、頭上の大時計が十時を告げ始めた。運命の鐘の音がひとつひとつ胸に鳴り響き、体を突き動かした。彼は手を伸ばし、彼は手を伸ばし、レナール夫人の手を取ったが、夫人はすぐ手を引っこめた。ジュリヤンは自分が何をしているのかわからないまま、もう一度手をつかんだ。(以下略)
⑤
不安な気持ちで機会をうかがいながら、ジュリヤンが心の昂ぶりをおさえかねていたとき、頭上の大時計が十時を告げ始めた。運命の鐘の音がひとつひとつ胸に鳴り響き、体を突き動かした。
とうとう、十時の最後の鐘がまだ鳴り響いているうちに、彼は手を伸ばし、レナール夫人の手を取ったが、夫人はすぐ手を引っこめた。ジュリヤンは自分が何をしているのかわからないまま、もう一度手をつかんだ。(以下略)
④<第2刷>の訳は、原文のEnfin, comme le dernier coup de dix heures retentissait encoreを無視してそのまま後につなげた訳になっています。この「訳し忘れ」によって原文の素晴らしさが大きく損なわれてしまいました。10時の時計の鐘は10回鳴ります。そのいよいよ最後、10回目の鐘の音が終わるときになってジュリヤンはようやく夫人の手を握ることができたという緊迫感が失われてしまったのです。これでは、スタンダール先生に申し訳が立ちません。
⑤<第3刷>では、「とうとう、十時の最後の鐘がまだ鳴り響いているうちににおいては、」という部分が付け加えられました。やれやれ一安心。
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